Brandon, John. Citrus County. McSweeney's Rectangulars, 2011. (邦訳はありません。) 現代アメリカの郊外都市の倦怠感や貧困といったやるせなさを、十代の少年少女の目から描く作品はほかにもたくさんあるけれど、登場人物たちをこんなにも拒絶したくなる小説ははじめてだ。
おさないころに父母をうしなった十三歳のトビーはフロリダのシトラス・カウンティーという郡に叔父とふたりで暮らしている。そこはとくになんのおもしろみもないカウンティーで、マナティのいる湿地帯にかこまれているが子どもたちはそんな自然を美しいとも貴重だとも思うことなく日々を送っている。トビーは平気で道端にごみを捨て、さらには転校生の女の子、シェルビーの妹のちいさなケイリーを誘拐して地下倉庫にとじこめる。シェルビーはクラスメイトや教師を含めあらゆる人をばかにしており、二十九歳の地理教師、ミスター・ヒブマは自分はただ教師である「ふりをしている」のだと自分にいいきかせている。FBIの捜査官でさえまったく熱意を持っておらず、誘拐事件がおきてもまるでうわのそらだ。そんな登場人物のだれもが自分だけが特別だと考え世界をないがしろにしている様子には、嫌悪感をいだかずにいられない。 でも。こんな良心も常識も、感情さえないように思える人たちの姿が淡々と語られるなかで、やはりなにかが変わっていく。トビーとシェルビーの関係、ミスター・ヒブマの人生観。どんどん悪い方向に向かっているようにみえた無力なトビーが、自分ひとりの力でぐっと頭を持ち上げる瞬間には、おどろきと感動をおぼえる。人はあらゆる期待がうらぎられ希望をうしなったとき、はじめて自分の力に気づくのかもしれない。最後はタイトルにふさわしい、さわやかな読後感が待っている。 作者のジョン・ブランドンはフロリダ州育ち。2008年に Arkansas でデビューし、2010年出版の本書 Citrus County は2作目の長編小説。本書の一部は肉体労働で各地を点々としながら書かれた。
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Just Kids by Patti Smith, HarperCollins Publishers, 2010
アメリカのロックスターであり詩人であるパティ・スミス(1946年〜)の自伝。二十歳のころ、トランクひとつ持ってニューヨークに出てきたパティは同い年のロバートに出会う。のちに写真家となるロバート・メイプルソープだ。お金がなくて満足に食事もできないなかで、出会った日から、お互いがアーティストとなることを疑わず、刺激しあいインスピレーションを与えあう二人の生活が、さっぱりと簡潔な文章でつづられている。 二人がすこしずつアートの世界で認められていくにつれて、1970年代のニューヨークの、最も活気に満ちた場面を彩っていた人物たちが登場するのもこの作品の魅力だ。アンディ・ウォーホルの取り巻き連中やジミー・ヘンドリクスにジャニス・ジョプリン。そうした出会いがロバートを写真へ、パティを詩とロックンロールの融合という表現へと後押ししていった。しかしどんなにたくさんの人と出会っても、いつも「二人」があった。「だれも、ぼくたちみたいな目を持ってるやつはいないさ。」新しい恋人ができて別々に暮らすようになっても、ロバートはそう繰り返す。恋や友情を超えた強い関係を、だれかと築くことの幸せと痛みが胸にせまる。 衝撃と感動を引き起こしたアーティストも、just kids、「ただの若者」だった。生きることを創造することとしてとらえる決意を持っていた。 山内明美著、『こども東北学』、イースト・プレス(2011年) 挿画・挿絵 100%オレンジ/及川賢治 歴史社会学、日本思想史を専攻する研究者であり、三陸沿岸部で生まれ育った「百姓のこども」である著者が、東日本大震災の被災地の子どもたちに語りかけるように説く東北学だ。巨大な地震と津波を経験し、大切な人をなくし、いまも放射能への不安を抱える子どもたちを思い、あらためて悲しみに震えながらこの本を読みはじめた。
著者はまず、東北とは何かを問うことからはじめる。地理的にも精神的にも日本の中心と考えられている、東京という都市から見て東北の方角にある地域である、ということがいえそうだが、では中心とは、「まん中」とは何か、そもそもそれは本当に存在するのか。そう考えたとたん、地理的な中心だけでなくさまざまな「まん中」の思考から生み出される「辺境」の概念、つまり差別や貧困などの問題にも目を向けずにはいられなくなる。あらゆるものの「まん中」を問い直してみる。既存の力関係に挑戦するそんな勇気と集中力に裏打ちされた言葉を読むうち、東北という土地の捉え方が、「子どもたちの東北」から「私の東北」という強い愛着に変わっていった。 しかしこの本は、まん中とそのまわりをただ対立させて考えるだけにはとどまらない。都会と田舎、それぞれの長所と短所を認め、それらが本当に相容れないものなのかと問いかける。甲か乙かの二択から選び取るのではなく、ふたつのよいところをとりいれて新しい何かが創造できないかと模索する。そんな姿勢は現代を生きる多くの人に共感を呼ぶものと思う。 「人の生死は米穀の進退」と主張する安藤昌益や、「自分自身が福々しいいもにふくれ上がっている」という感慨を記した吉田せいなど、人の体は食べものでできているという趣旨の引用が重ねられるのも印象的だ。食べものを通して人間は他の動植物や土や海とつながっている。すべての土地は土と海でつながっているという実感を持つとき、傷ついた東北は東京に暮らす私の土地としても感じられる。土地の痛みはそのまま自分の痛みになる。そしてやがて世界という空間に拡張した自己は、過去と未来という時間軸のなかでもどんどん伸びていき、お年寄りや子どもたち、さらには何世代も離れた人たちともつながっていく。〈東北〉とカッコでくくって著者が書くとき、心にあるのはそんなつながりによって力強くつづいていく生命への思いなのかもしれない。 チママンダ・ンゴズィ・アディーチェ著、くぼたのぞみ訳 『明日は遠すぎて』、河出書房新社(2012年) 2006年から2010年までに発表された9作品を集めた日本限定のオリジナル短編集。作者のアディーチェは1977年ナイジェリア生まれ。大学からはアメリカで学び、2007年には『半分のぼった黄色い太陽』でオレンジ賞を受賞している。訳者はアフリカやラテンアメリカ系の作家の作品を数多く翻訳されてきたくぼたのぞみさん。
まず迎えてくれるのはある少女の夏の記憶、表題作の「明日は遠すぎて」。十歳の夏に起きた事故をきっかけに、アフリカの家族とは会わなくなってしまった「きみ」が、祖母の葬儀のためにアメリカから十八年ぶりにナイジェリアに戻ってくる。8月の空気や木々の様子とともに思い出される初恋、兄ばかりがちやほやされることへの反発、そして「初めて自分を意識した」こと。たった十数ページのうちにその場所のにおいまでかいでいるような気持ちにさせられる、みずみずしい一編。 ラゴスやスッカなどの都市と、それらと対照的なちいさな村など、各作品でナイジェリアの異なる場所の様子をうかがい知れるのも興味深い。「シーリング」では若くして成功したビジネスマン、オビンセの視点から大都市ラゴスの喧噪とともに、裕福に暮らす人々の倦怠感のようなものが浮き彫りにされるし、「がんこな歴史家」ではオニッチャの学校に通うようになった少女、グレイス=アファメフナを、祖母の村のイメージが捕らえてはなさなくなる。 登場人物たちはまた、アメリカ、イギリス、フランスへと向かう。ナイジェリア国内でも、欧米的なものが富の象徴であることを超えてもはや日常になろうとしている。そんななかで自分が何者であるかということを強く意識し、感情を素直にあらわそうとする若者、特に女性たちの姿が熱風のようなさわやかで力強い印象を残す。 さあ、次は彼女の長編を読んでみよう。現代文学の青葉に覆われたおおきな木の、根元に立つことができた気分だ。 St. Lucy's Home for Girls Raised by Wolves, Karen Russell, Vintage Books, 2007
(和訳はないのでぜひ原書で。) ふしぎがつまった短編集。GRANTA の "Best Young American Novelist" に選ばれ、第二作でありはじめての長編小説、Swamplandia! では2012年度のピューリッツァー賞最終候補にもノミネートされたカレン・ラッセルのデビュー作です。 どの作品もとても奇妙な設定でありながら、ひとつひとつの単語の意味を拡張して思いがけない言葉どうしを結び合わせるような、イメージゆたかな文体にすぐにひきこまれます。特に印象深いのはまず、フロリダ州エヴァーグレーズの湿原の物語、「エーヴァはアリゲーターとたたかう(Ava Wrestles the Alligator)」。ちいさなエーヴァが幽霊や鳥男の出没する沼地で姉のオセオーラを救うため、勇敢にアリゲーターとたたかいます。このお話はSwamplandia! でさらに発展していきます。 そして「オリヴィアを探せ(Haunting Olivia)」。Haunting はふつう、幽霊などがとりついて離れないことを言うけれど、ここではあえて「探せ」と訳したい。ふたりの兄弟、ワローとティモシーが行方不明になった妹、オリヴィアを探して毎晩、海に潜ります。会えるとすればそれは幽霊のオリヴィア。幽霊はこわい、でもそもそも幽霊なんて信じる?信じたりばからしく思ったり、ティモシーの気持ちは揺れ動きます。半信半疑であっても妹を見つけようとがんばるティモシーを、いつしか「探せ、探せ!」と心のなかで励ましていて、現実と非現実がはっきりわかれているつもりで過ごしてしまう日常とは、すこしちがった考え方をしていることに気がつきました。 表題作の「狼に育てられた少女たちの家(St. Lucy's Home for Girls Raised by Wolves)」も必読。狼人間の子どもたちが修道院で〝人間〟になるためのレッスンを受けます。家族とは、故郷とはなにか。そんな問いをつきつけるようなラストシーンの描写はあざやか。〝Home〟の概念がぐらりとゆらぎ、まわりはじめます。 |
Rumi Hara原 瑠美 Archives
March 2015
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