思わず笑ってしまった。
「原さん、虹の根元にはねえ、おっさんが七人ずつ立って照らしてるんだよ。ライトで。」 そういったのは出張で岐阜に行ったときに同行した担当者で、私たちは仕事が終わってオフィスに戻る車が山道にさしかかったときに、夕空におおきな弧を描く虹(しかもダブルレインボー!)を見たのだった。その年は寒さがなかなか来なくて、京都に紅葉を見に行ったのにまだ青々としていたなんて話をよくきいたが、岐阜の山中では十一月も下旬となるとさすがに木々は美しく色づいていた。ゆるやかな下り坂の道の先は、重なりあって伸びた黄色い葉に隠れて見えない。こっちの山からあっちの山へ、橋を渡すようにくっきりとかかった虹の下を車はくぐっていった。 「岐阜の伝説だよ。」おちゃめな担当者がそういうので、私はまた笑いながら外の景色に目をうばわれていた。
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2年ほど前、週に何回か溝の口に通っていた時期があった。東急田園都市線の駅を降りると職場のある複合施設まで送迎バスが出ているのだが、歩いてもせいぜい15分ほど。気持ちのいい道なので朝夕の散歩がわりに歩いていた。道沿いにモダンなつくりの団地があった。立派な木々が茂る中庭をとりかこむように背の高い棟が配置され、ピロティ式の入り口の脇には花が咲きほこる噴水があった。ちょうど初夏のころで植物がみずみずしく育ち、はじめて見たときはこれこそ楽園だと思った。太陽がかがやく朝はこの楽園がひときわ美しいが、夕闇が深くなるころや薄暗い雨の日に目をひくのは道端の紫陽花だった。のぞきこむと葉のあいだから雨を吸った土のにおいがたちのぼる。それははなばなしい噴水花壇との対比で別世界の植物のようにも見えた。
5月に嵐が吹き荒れた。さわやかな新緑に真夏のような陽が射すと思えば急に不穏な雲がたちこめあたりは暗く黄色くなって、横浜では雹が降った。ビルの上からはさっきまで少年たちがサッカーの練習をしていた天然芝の緑に落ちる水滴が波濤のように見え、それがぱちぱちと窓ガラスを打つ氷塊に変わった。風に押されてアサガオのようにすぼまった傘を、必死でにぎりしめながら歩く人がいる。雹にあたって怪我をしないかとひやひやさせられる。マリノスの練習場からビルのある区画へと道をわたるところで突風が吹いたらしく、歩く人は前のめりになって踏ん張っていた。
昨年三月から一年間参加していた「読み書きクラブ」が四月からまた新たにスタートしました。年齢も職業もさまざまな参加者が読み書きに取り組む、月一回の刺激的な集まりです。これまでの活動はこちら。今年は毎月タイトルを統一してみんなで作文を書いていくことになりました。文字数は二千字。一年経つとどんな作文群ができあがるか、たのしみ。初回は〈昭和〉についてです。これからはここにも作文を載せていこうと思います。
---------- 〈昭和〉を思い出すとき 昭子の父はたしか材木問屋をしていて、商いを広げようとしたのか、氷砂糖を輸入していたころがあったという。そのころは氷砂糖なんて知っている人はあまりいなかった。昭子はその味をずっとおぼえていた。大人になると雀荘を経営したが、象牙の牌は生活のためにぜんぶ売らなければならなかった。そうやって女手ひとつで三人の子どもを育てた。いちばん上の男の子が私の父だ。 和子の母は広島で芸者をしていた。やくざの玉造にみそめられ、三人の娘を連れて大阪にやってきた。玉造は枚方に山を買い、頂上に屋敷を建て、夜な夜な酒をはった池に祇園の芸妓たちを乗せた船を浮かべてあそんだ。かと思えば食べるものにも着るものにも困る日があった。そんな浮世離れした生活を取材しにやってきた新聞記者と、和子は結婚した。夫に先立たれると寝る間もおしんで勉強して不動産業の資格を取り、ふたりの娘を育てた。上の娘が私の母だ。 好きなものを人に話すときはちょっと緊張する。だからなんだって言うのさ、という反応をされはしないか。え、そんなもの好きなの、と変な目で見られる可能性はないか。あるいは、私の方がこんなに好き、あなたたいしたことないわね、と思いがけずダメだしをくらうこともありうる。いちばんこわいのは相手が実はいじわるだったりして、好きなものを横取りされてしまうことだ。だからほしいものは極力口に出さない。そして人知れず防衛策を講じておく。これ大人の原則。
しかしそうやって秘密にしているのは、なんだか姑息な外交手段に似てはいないか。ほしいものをほしいと言わず、好きなものには気のないふりで、それなのに影でせっせと腕力を鍛えて相手を威嚇している。いきつく先は戦争だ。そうなったら大変だ。世界に平和を!これからは好きなものを日々たからかに宣言することにしよう。 |
Rumi Hara原 瑠美 Archives
March 2015
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