まちがえた。ブルドッグじゃなくてボストンテリアだった。というのも、昨日、サバンナの空港にBAHSTONシャツを着て降り立つと、黒人のおばちゃんが「あら、それはボストンテリアね!うちにはボストンテリアが3匹もいるのよ!かわいいわねえ、かわいいわねえ!」といって寄ってきたのだ。
街に出てみると雨が降ってきた。ハリケーンがニューオリンズに豪雨を降らせていて、その影響らしい。バス停でまたべつのおばちゃんとおしゃべりして傘に入れてもらう。スパニッシュモスを垂らした木々がおばけのようで美しいです。
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ボストニアンたちのアクセントでは、Art は Aht、Boston は Bahston。ブルドッグが "BAHK, BAHK" (Bark, Bark=ワン、ワン!)とのんびりした顔で吠えているTシャツが売られていて、思わず飛びついてしまった。ここはブルの街。 デザートにバブルティーを買って、How ah yah? 旅は今日まで。明日からジョージア州サバンナで、新しい生活がはじまります。
56°Fといえば13、4℃くらい。そんな寒い寒いサンフランシスコを発ってボーズマンの空港に降り立てば、うってかわって太陽がじりじりと照りつける暑さ。うれしい。からっとした風が気持ちいい。友達に連れられて、「ビッグ・スカイ・ステイト」と呼ばれるモンタナからイエローストーン・ナショナル・パークに行ってきました。 広い空と見渡すかぎりの草原に、バイソンの群れ。ここもかつてはインディアンが暮らした土地。 イエローストーンの湖は北アメリカでいちばんおおきいカルデラの上にあり、湖のまわりにはぼこぼこと温泉が湧き出る穴がいくつもあいている。公園内には高温の温泉が流れるボイリング・リバーやかずかずのガイザー(間欠泉)があって、かわいた空気にふと硫黄の香りが混じることも。水と熱のにあらためて生きている地球の力を感じる。
20年ほど前、アメリカから日本に帰ってきたとき学校の先生に、「あなたはこれから日本人として生きるのか、アメリカ人として生きるのか、決めたほうがいい」といわれて戸惑った。どちらかに決めて、それにふさわしい教育を受けたほうがいいというのだ。向こうには2年行っていただけなのに、私は漢字はまったく書けず、夢も英語で見るようになっていた。だからといってアメリカに戻る予定は、さしあたって、ない。10歳だった。決められなくて怒りがこみあげた。そもそもそんな二択はまちがっている!と思ったけれどそのころはうまくいえなかった。いまでもうまくいえないかもしれない。自分が「ナニジン」であるか、を決められた選択肢のなかから選びとる以外の答えを創り出すために、これからも生きていくのだと思う。
温又柔さんの『来福の家』にこんな一節がある。 「知らないうちに思い込まされるのにはもう耐えられないのよ。楽にしていてそうなってしまうぐらいなら、ひとつひとつにきちんと腹を立てていたい。」 自分とは異なる意見を持つ人がいることを想像できず、自分が絶対的に正しいと信じる意見を押しつけてくる人たちに、反発するお姉さんの言葉だ。しきりに感動。 生きることは反抗だ。反抗して創造する。 さて、明日からアメリカ! 思わず笑ってしまった。
「原さん、虹の根元にはねえ、おっさんが七人ずつ立って照らしてるんだよ。ライトで。」 そういったのは出張で岐阜に行ったときに同行した担当者で、私たちは仕事が終わってオフィスに戻る車が山道にさしかかったときに、夕空におおきな弧を描く虹(しかもダブルレインボー!)を見たのだった。その年は寒さがなかなか来なくて、京都に紅葉を見に行ったのにまだ青々としていたなんて話をよくきいたが、岐阜の山中では十一月も下旬となるとさすがに木々は美しく色づいていた。ゆるやかな下り坂の道の先は、重なりあって伸びた黄色い葉に隠れて見えない。こっちの山からあっちの山へ、橋を渡すようにくっきりとかかった虹の下を車はくぐっていった。 「岐阜の伝説だよ。」おちゃめな担当者がそういうので、私はまた笑いながら外の景色に目をうばわれていた。 吉祥寺のトムズギャラリーで先日までやっていた、長野はなちゃんの「MI VETINO 奇妙なお隣さん」展にいってきました。夢のなかで見るような笑顔とぞわぞわと心くすぐる突起、それに色、色、色。メキシコで修行をつんだはなちゃんは、今度はコスタリカに行かれるそうです。もっとラテンアメリカを見せてください日本で世界で。最後はうつくしき仲間たちと記念撮影。はなちゃん、いつか作品集を!
Hana's works: http://laflorhana.blogspot.jp/ それでみついさんと石油や石炭の話をしていて、そもそも埋まっているものを掘り出してはいけないのではないかといったら「でも掘り出せるってこともあるよね」とみついさん。そうだ人間は地中深く埋まっているものを掘り出せてしまう。ひとりひとりが工夫をして働いて生きていくことと、誰にも制御できないほどの破壊力が動き出すことのあいだには、いったいどこに境界線があるのだろう。たとえば自然破壊、そして戦争。そんなおおきなもののなかでひとりの力はきっとものすごくちいさい。と同時にうんとおおきくもなりえる。
侵せるから侵すのか。 奪えるから奪うのか。 殺せるから殺すのか。 人間は。 常に自問していかなかればいけない。 |
Rumi Hara原 瑠美 Archives
March 2015
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