七月になりました。熱帯〜亜熱帯地域の動植物についての語彙と知識を増やすため、熱川バナナワニ園に行ってきました。 勉強になるなあ。 ![]() そして楽しい。 これは100キロの重さも支えられるというオオオニバコの葉。いつか乗りたい。 ![]() もちろんバナナ。 分館のフルーツパーラーではここで採れた新鮮なバナナのデザートが味わえます。おいしい。 ![]() ワニはほとんどの種類がそろっています。こんなに近くから観察。 ![]() だいたい昼寝中。 ![]() 昼寝中。 ![]() 口を開けたまま。 ![]() でもクチヒロカイマンだけは動きまわっていました。 また行きたい。
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![]() 大飯原発再稼働に反対します。原発は、事故が起これば世界中の人を被曝させる。こんなにこわいものはないと思う。事故がなくてもそこで働く人は毎日被曝している。だれかの生命と引き換えにした豊かさはいらない。 首相官邸前の抗議活動に参加しました。 http://coalitionagainstnukes.jp/?p=623 夏の夜空に太陽と文字。みんなでひたすら「再稼働反対」と繰り返します。ついあまのじゃくなことがしたくなるけれど、がまん。 福島第一原発の事故でたくさんの人が故郷を追われるなか、家畜は放置されたり殺されたりしました。謝ろう、牛にも。
やめよう、原発。 山内明美著、『こども東北学』、イースト・プレス(2011年) 挿画・挿絵 100%オレンジ/及川賢治 歴史社会学、日本思想史を専攻する研究者であり、三陸沿岸部で生まれ育った「百姓のこども」である著者が、東日本大震災の被災地の子どもたちに語りかけるように説く東北学だ。巨大な地震と津波を経験し、大切な人をなくし、いまも放射能への不安を抱える子どもたちを思い、あらためて悲しみに震えながらこの本を読みはじめた。
著者はまず、東北とは何かを問うことからはじめる。地理的にも精神的にも日本の中心と考えられている、東京という都市から見て東北の方角にある地域である、ということがいえそうだが、では中心とは、「まん中」とは何か、そもそもそれは本当に存在するのか。そう考えたとたん、地理的な中心だけでなくさまざまな「まん中」の思考から生み出される「辺境」の概念、つまり差別や貧困などの問題にも目を向けずにはいられなくなる。あらゆるものの「まん中」を問い直してみる。既存の力関係に挑戦するそんな勇気と集中力に裏打ちされた言葉を読むうち、東北という土地の捉え方が、「子どもたちの東北」から「私の東北」という強い愛着に変わっていった。 しかしこの本は、まん中とそのまわりをただ対立させて考えるだけにはとどまらない。都会と田舎、それぞれの長所と短所を認め、それらが本当に相容れないものなのかと問いかける。甲か乙かの二択から選び取るのではなく、ふたつのよいところをとりいれて新しい何かが創造できないかと模索する。そんな姿勢は現代を生きる多くの人に共感を呼ぶものと思う。 「人の生死は米穀の進退」と主張する安藤昌益や、「自分自身が福々しいいもにふくれ上がっている」という感慨を記した吉田せいなど、人の体は食べものでできているという趣旨の引用が重ねられるのも印象的だ。食べものを通して人間は他の動植物や土や海とつながっている。すべての土地は土と海でつながっているという実感を持つとき、傷ついた東北は東京に暮らす私の土地としても感じられる。土地の痛みはそのまま自分の痛みになる。そしてやがて世界という空間に拡張した自己は、過去と未来という時間軸のなかでもどんどん伸びていき、お年寄りや子どもたち、さらには何世代も離れた人たちともつながっていく。〈東北〉とカッコでくくって著者が書くとき、心にあるのはそんなつながりによって力強くつづいていく生命への思いなのかもしれない。 今日は夏至です。ストーンヘンジにはたくさんの人が集まって夏のはじまりを祝うそうです。
おめでとう、太陽! http://www.bbc.co.uk/news/uk-england-wiltshire-18519636 横浜美術館で開催中のマックス・エルンスト展、見応えがあります。コラージュやフロッタージュからデカルコマニー(乾く前の絵の具にガラス板など別の平面素材を重ねてからはがす技法)まで、いろいろな描き方の試みを一度にみれるのが楽しい。富士ゼロックス所蔵の『マクシミリアーナ』も展示されています。これは学位を持たなかったために冷遇された天文学者・詩人で、天体観測を「見る芸術」と呼んだテンペルを讃えた版画集。
解説パネルがあまりにおもしろくて時間がなくなってしまうほどでした。たとえば森についてのマックスの言葉。「外部であると同時に内部であり、自由であると同時に捕われている。この謎を解いてくれるのは誰だろう?」 24日までに、また行こう。 http://www.yaf.or.jp/yma/jiu/2012/ernst/index.html 5月に嵐が吹き荒れた。さわやかな新緑に真夏のような陽が射すと思えば急に不穏な雲がたちこめあたりは暗く黄色くなって、横浜では雹が降った。ビルの上からはさっきまで少年たちがサッカーの練習をしていた天然芝の緑に落ちる水滴が波濤のように見え、それがぱちぱちと窓ガラスを打つ氷塊に変わった。風に押されてアサガオのようにすぼまった傘を、必死でにぎりしめながら歩く人がいる。雹にあたって怪我をしないかとひやひやさせられる。マリノスの練習場からビルのある区画へと道をわたるところで突風が吹いたらしく、歩く人は前のめりになって踏ん張っていた。
大飯原発の再稼働を首相の責任で進めるという。でもそもそも「責任」を取るとは具体的に何をすることなのかまったく明示されないし、もし本当に責任を取れるというならまずは福島の事故の責任を取ってみせるべきだろう。「国民の生活を守る」というのは私たちに責任転嫁しているとしか思えない。
原発反対をとなえると、これまで好きなだけ電気を使ってきたのに何をいまさら、と責めるようにいう人もいる。たしかに、知らなかったですまされる問題ではない。それでも、自分なりに考えて声を上げはじめようとする多くの人に加害者意識を植えつけて、素直に恐怖や主張を口にするのを封じるべきではない。再稼働した大飯原発でもし事故が起これば、福井だけではない、京都や滋賀の汚染も取り返しがつかないものになる。京都に住んでいたころに行った琵琶湖の景色が、今日は思い出されてならない。 セザンヌ展が終わってしまう。来週までだけどたぶん行けない。会期が長いので油断していた。くやしい。
でも、絵をみて受ける衝撃と、絵をみないで残るしこりとが人格に対してもつ影響力は実はおなじくらいにおおきいのかもしれない。そうにちがいない。ああ、でも。 http://cezanne.exhn.jp/index.html なぜ廃墟が好きなのかとよくきかれる。なぜだろう。窓から緑が吹き出しているような廃屋をみると「おお!」と思う。声を出した拍子にずれた内臓があるべき位置にぱこっとはまるような、気持ちのいいおどろきだ。そしてそう思う人はきっとたくさんいるはず。2009年5月に写真の軍艦島をおとずれたときは、植物が繁茂するかつての不夜城に興奮した人々が船をおおきくゆらした。
この気持ちはフランスの森と水の作家、ジャン・ジオノがいう「幸福」と同じ種類のものかもしれない。 「君たちが幸福を味わう日には、大きな木々が街路を破裂させ、蔓草の重みがオベリスクを倒し、エッフェル塔を傾けるだろう。そしてそういう日には、ルーヴル宮殿の窓口の前では、熟した豆の莢が開き、野生の種子が地面に落ちるかすかな音しかもう聞こえないだろう。その日には、メトロの洞窟から、目の眩んだ猪たちが尻尾を震わせて出てくるであろう。」 (山本省による『憐憫の孤独』からの抜粋和訳) |
Rumi Hara原 瑠美 Archives
March 2015
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