昨年三月から一年間参加していた「読み書きクラブ」が四月からまた新たにスタートしました。年齢も職業もさまざまな参加者が読み書きに取り組む、月一回の刺激的な集まりです。これまでの活動はこちら。今年は毎月タイトルを統一してみんなで作文を書いていくことになりました。文字数は二千字。一年経つとどんな作文群ができあがるか、たのしみ。初回は〈昭和〉についてです。これからはここにも作文を載せていこうと思います。
---------- 〈昭和〉を思い出すとき 昭子の父はたしか材木問屋をしていて、商いを広げようとしたのか、氷砂糖を輸入していたころがあったという。そのころは氷砂糖なんて知っている人はあまりいなかった。昭子はその味をずっとおぼえていた。大人になると雀荘を経営したが、象牙の牌は生活のためにぜんぶ売らなければならなかった。そうやって女手ひとつで三人の子どもを育てた。いちばん上の男の子が私の父だ。 和子の母は広島で芸者をしていた。やくざの玉造にみそめられ、三人の娘を連れて大阪にやってきた。玉造は枚方に山を買い、頂上に屋敷を建て、夜な夜な酒をはった池に祇園の芸妓たちを乗せた船を浮かべてあそんだ。かと思えば食べるものにも着るものにも困る日があった。そんな浮世離れした生活を取材しにやってきた新聞記者と、和子は結婚した。夫に先立たれると寝る間もおしんで勉強して不動産業の資格を取り、ふたりの娘を育てた。上の娘が私の母だ。
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昨日、明治大学で開催された「詩は何を語るのか? What Does Poetry Say? シンポジウムと朗読」は本当におもしろかった。
まずは新井高子さんのお話から。リズムを主体にした「言葉の作曲」を目指す詩人の、自分は日本語文学の流れのなかで式亭三馬が占めていたような位置にポジショニングしたい、という発表が新鮮でした。 つぎに、中村和恵さんがアボリジニの土地を維持するための歌に触れた経験から、言葉は基本的にこわいものである世界(自然)に対処するための唯一の手段であるという考えを示されました。随所に挿入される小咄に大笑いすると同時に、明晰な思考にがつんと衝撃を受けました。 それから、言葉は見えないものを見えるようにし、見えるものを見えなくする力を持つという山崎佳代子さんの流れるような考察の展開。効率的な課題遂行のため、言葉の意味がどんどんそぎ落とされ画一的になっていく都市の言語のなかでも、言葉の持つ多義性を肯定していこうという姿勢に深く共感しました。 そして管啓次郎さんの「詩を読むことは野生動物と出会うことと同じくらいにおもしろい」という発言から議論がどんどん発展。特定の種類の動植物以外の野生種にはじまり、おなじ人間どうしでも、一定の基準から逸脱するものをすべて排除してきた現代都市のなかで詩の言葉が果たす役割について論じられたあとで、四人の詩人の作品を朗読という形で肉声をとおして体験することができました。 自ら「同調」することを学びそれを実践する傾向が、いまの日本ではあまりに強くなってきているのではないか、という話を聞いてはたと思い出したのが幼稚園の学芸会のこと。着物がいいかドレスがいいかと先生に二択をせまられ、私は決められなかったばかりか逆上した。けれど結局さいごは着物を着てみんなと踊った。こんなふうに与えられた(つまり他人によって勝手に限定された)選択肢のなかから選びとるのではなく、自らつくりだしたい。そうすることでまわりの99パーセントの人に迷惑がられて疎外されても、野生の言葉でつづられた詩だけはいつでも力を与えてくれるのかもしれない。昨日は詩にそんなことを語ってもらえた気がしました。 リズムについて新井さんに質問したら、帰りに「ミて」というすてきな雑誌をいただきました。うれしいです。新井さん、ありがとうございました。 このシンポジウムについてはいつもお世話になっている管先生のブログで知りました。参加者の方のプロフィールがのっています。 http://monpaysnatal.blogspot.jp/2012/04/blog-post_29.html 「書くこと」と「描くこと」を大きなテーマにして進んでいこうと思うにあたって、日本語の音声がこのふたつを区別していないことになんだか勇気づけられました。象形文字が生まれたむかしにまでさかのぼらなくても、言葉と絵は人の意識のなかで、生活のなかで、いまでも根源的に切り離せないものになっている。
とはいえ書いているときは描くことができないので当たり前だがなやましい。やっぱり完全に「書く」=「描く」ではないんだ。 でもたとえば、なにか黄色いものを見てその色がどんな印象を与えるかによって「黄色」、「イエロー」、または「太陽」と言うのがいいのかなどと考えながら言葉を選びそれを文字として見える形で書いていく過程は、"YELLOW"を使うべきか"DEEP YELLOW"をベースにするべきか、赤を混ぜるべきか紫を少し入れてみたほうがいいのか、などと考えながら色を選び構図を考え描き始めるプロセスに似ている。頭の中の映像や音声や感覚といった情報を他者と共有できる形で伝え、その記憶を受け継いでいくことが言語の目的であるとすれば、「書くこと」と「描くこと」はどちらも同じプロセスを通じてそれに貢献している。そうだそうにちがいないなあと思って、また勇気づけられました。 私のヒーロー、河井美咲さんの展覧会 "Love from Mt. Pom Pom" がニューヨークのCMAにて開催中。見たい。さすがに行けないけど。行きたい。
http://www.cmany.org/event/misaki-kawai-–-love-from-mt-pom-pom/ 代官山の蔦屋書店で古川日出男さんと近藤恵介さんの二人展、「覆東北恐怖譚(ふく・とうほくきょうふたん)」を見ました。去年の「東北恐怖譚」のネガティブなイメージを「覆す」あるいは「覆う」というコンセプト。岩絵の具の砂糖菓子のようなやわらかさと、するどい言葉の組み合わせが印象的。かっこいい。ロックだ。東北ロック。
「覆」という字は「くつがえす」という破壊的なイメージと、「おおう」というやさしいイメージの両方を持っていることにあらためて気づいてうなった。 今週の日曜日までです。 http://tsite.jp/daikanyama/event/000390.html 誘ってくれた南映子さんも詩を寄せている『ことばのポトラック』も並んでいました。この本、鍋敷きにもなるし醤油をこぼしてもへいきなんだって。ほしい〜。 http://www.amazon.co.jp/ことばのポトラック-大竹昭子/dp/product-description/486110310X/ref=dp_proddesc_0?ie=UTF8&n=465392&s=books 好きなものを人に話すときはちょっと緊張する。だからなんだって言うのさ、という反応をされはしないか。え、そんなもの好きなの、と変な目で見られる可能性はないか。あるいは、私の方がこんなに好き、あなたたいしたことないわね、と思いがけずダメだしをくらうこともありうる。いちばんこわいのは相手が実はいじわるだったりして、好きなものを横取りされてしまうことだ。だからほしいものは極力口に出さない。そして人知れず防衛策を講じておく。これ大人の原則。
しかしそうやって秘密にしているのは、なんだか姑息な外交手段に似てはいないか。ほしいものをほしいと言わず、好きなものには気のないふりで、それなのに影でせっせと腕力を鍛えて相手を威嚇している。いきつく先は戦争だ。そうなったら大変だ。世界に平和を!これからは好きなものを日々たからかに宣言することにしよう。 青山塾で二年間お世話になった舟橋全二先生のオブジェ展、HOOKは南青山のスペースユイで明日から。どこをとっても心地よい擬音語擬態語が聞こえてきそうな形にさわやかな色づかい。たとえばゾウさんの鼻は「ビロビロリン」(語尾上がり)。これもはやく見たい。
http://spaceyui.com/schedule/funabashi_12.html 画家の門内幸恵さんの展覧会「エッセンスに向かって」が、明治大学生田図書館 Gallery ZERO にて開催中。メキシコ文学者であり十年来の友人である南映子さんが「挿文」を書いているらしい。「挿画」と「挿文」。どんな相互作用を見せてくれるのか。はやく見に行きたい。
http://www.lib-ref.jp/meiji/opennews/NewsViewAction.do?id=NS00000757 幸恵さんの作品はここでも見れます。この色、この目、ぐっときます。 http://yukie-monnai.blogspot.jp/ スティックマン(=棒人間)がすごい。血を流し、頭から巨大な魚を生やし、宇宙にまで行ってしまう。ドン・ハーツフェルトのアニメーション作品、シアターイメージフォーラムにて4月27日(金)まで。 http://www.imageforum.co.jp/don/ 『人生の意味』(2005年)でいろいろな惑星に住む宇宙人がつぎつぎ出てくるめくるめくシーンはずっと見ていたかったし、『リジェクテッド』(2000年)でテレビ局に採用されなかった"ボツ作品"の姿を取るCM群がまたおもしろい。何度も思わず笑ってしまった。絵はシンプルな棒人間だけど、目線や手の動きがあまりにリアル。笑うだけでなく、最後は「ああ、そうだ」と何か大切なことを思い出した気がしました。ところでこのもあもあした人たちって雲なのか思考の吹き出しなのかエッジが丸いビスケットなのか、すごく気になる。 ブログをはじめます。本や絵のことを中心に書いていこうと思います。タイトルはピーナツバター・シスターズにしました。ふざけた名前の彼女たちですが、生命を讃えることにかけては真剣です。踊ります。踊りつづけます。私も書き、描きつづけたいと思います。
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Rumi Hara原 瑠美 Archives
March 2015
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