山内明美著、『こども東北学』、イースト・プレス(2011年) 挿画・挿絵 100%オレンジ/及川賢治 歴史社会学、日本思想史を専攻する研究者であり、三陸沿岸部で生まれ育った「百姓のこども」である著者が、東日本大震災の被災地の子どもたちに語りかけるように説く東北学だ。巨大な地震と津波を経験し、大切な人をなくし、いまも放射能への不安を抱える子どもたちを思い、あらためて悲しみに震えながらこの本を読みはじめた。
著者はまず、東北とは何かを問うことからはじめる。地理的にも精神的にも日本の中心と考えられている、東京という都市から見て東北の方角にある地域である、ということがいえそうだが、では中心とは、「まん中」とは何か、そもそもそれは本当に存在するのか。そう考えたとたん、地理的な中心だけでなくさまざまな「まん中」の思考から生み出される「辺境」の概念、つまり差別や貧困などの問題にも目を向けずにはいられなくなる。あらゆるものの「まん中」を問い直してみる。既存の力関係に挑戦するそんな勇気と集中力に裏打ちされた言葉を読むうち、東北という土地の捉え方が、「子どもたちの東北」から「私の東北」という強い愛着に変わっていった。 しかしこの本は、まん中とそのまわりをただ対立させて考えるだけにはとどまらない。都会と田舎、それぞれの長所と短所を認め、それらが本当に相容れないものなのかと問いかける。甲か乙かの二択から選び取るのではなく、ふたつのよいところをとりいれて新しい何かが創造できないかと模索する。そんな姿勢は現代を生きる多くの人に共感を呼ぶものと思う。 「人の生死は米穀の進退」と主張する安藤昌益や、「自分自身が福々しいいもにふくれ上がっている」という感慨を記した吉田せいなど、人の体は食べものでできているという趣旨の引用が重ねられるのも印象的だ。食べものを通して人間は他の動植物や土や海とつながっている。すべての土地は土と海でつながっているという実感を持つとき、傷ついた東北は東京に暮らす私の土地としても感じられる。土地の痛みはそのまま自分の痛みになる。そしてやがて世界という空間に拡張した自己は、過去と未来という時間軸のなかでもどんどん伸びていき、お年寄りや子どもたち、さらには何世代も離れた人たちともつながっていく。〈東北〉とカッコでくくって著者が書くとき、心にあるのはそんなつながりによって力強くつづいていく生命への思いなのかもしれない。
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Rumi Hara原 瑠美 Archives
March 2015
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